自己肯定の論文

先日米国の日本人の先生方と「論文について語りあう」という楽しすぎる趣旨のZoom飲みに参加させていただいた。 とても楽しかったし色々な発見があったのだが、自分にとって論文とは?というお題が出て、その場では全然考えがまとまらなかったのだがその後考えてみたことを書きたい。 参加されていた先生が仰っていた、キャリアの段階や目的によって変わってくる、という点にすごく共感した。 本数が必要なフェースもあれば、数はいらないけどデカいのが書きたい、という時やこの手術のテクニックで売っていきたいから書く、ということもあるのではないだろうか。 僕自身にとっては、論文は目的を達成するためのツールであるが目的そのものではない、ということはフェーズを通して一貫している気がする。 もちろん研究のプロセスが楽しいからとかトピックが好きだから、というのは常に根底にあるのだが、論文を使って何をしたいかは変わり続けている。 大学にいたときは医学部に入るのに有利だろうから、という様な動機で書いていたし医学生のときは推薦状をもらうためやらマッチングのためだと思って書いていた気がする。 レジデンシーに入ってから論文を書いたのは自己肯定のためだったように思う。 この話を書くのは恐る恐るなのだが、 僕が2015年に胸部心臓外科プログラムにマッチした施設は、大学や医学部全体では有名だが心臓外科は下火で、もちろん見方にもよるのだろうが他に臨床・研究ともにもっと勢いのあった他施設に行きたかった僕にとってはかなり悔しい結果となった。 当時は臨床研究もそれほど活発ではなく、学会発表もあまり無いしアカデミックな士気の様なものはレジデント含めてプログラム全体では決して高く無かったと思う。 外から見た専門分野内でのその施設の評価は、論文や学会発表でのプレゼンスやプレイヤーのアカデミックな認知度によるところが大きいと思っていたので、そこを上げることができれば「あそこ凄いじゃん」となってプログラムが盛り上がりそれが「結局ここで良かった」という自己肯定に繋がるのではないか、というおこがましいことを画策していた。 しかしどうすれば良い研究ができるかいまいちわからずに細々とレビュー論文などを書きながらしばらくモヤモヤしていたのだが、 2017年に今の最強カリスマ心臓外科チーフが就任し、結構な改革を行い臨床も研究もガラッと雰囲気が変わり、一応臨床研究チームのようなものも立ち上がった。 そこで研究に本腰を入れる様になったしその辺りから臨床研究に対する考えやスキルやらが加速したような気がする。 しかし研究チームを立ち上げた頃は全く上手くいかず、論文はなかなか通らないし学会に送った5本の抄録が全部リジェクト、ということもあった。何を思ったかチーフが100万円くらいで心臓外科手術の全米データを買っても良いと言ってくれて、それを使って書いた抄録が通ったのだがオーラルではなくてポスターで、 他施設が何本もオーラルで発表しまくっていたその学会中、チーフと二人でフロリダのホテルのプールサイドでダラダラとカクテルを飲みながら、大金をかけた割には成果が出なかったことを急に不甲斐なく感じ「やっぱり勝ちは遠いですねー」というようなこと口走ってしまったこともあった。 不思議なものでその後少ししてから徐々に点が線で繋がっていくようなフェーズに入り成果が出始めて、 今年の胸部心臓外科学会では一つの学会では通ったオーラル2本の内1本は大学生が筆頭で書いた抄録だったのでかなり嬉しかったし、もう一つの以前5本全てリジェクトだった学会ではオーラルが3本通り(バーチャル移行で結局1本だけのプレゼンになってしまったが)、伸びている感じはする。 論文も一定のペースで出るようになり当初の目的であった、他施設のアテンディングやレジデントから認知される、という点も手応えを感じる機会が徐々に増えてきている気がする。 また、面接や実習にくる外の医学生が「論文読みました」とか「ここに来てあの論文でやっていたような研究したいです」とか言ってくれるのはお世辞でもすごく嬉しい。 今のボスの元で研究できるのもチーフのおかげなので感謝しかないし、回り回って論文を通して、胸を張れる程の成果はまだないが今いるところの居心地はよくなりつつある気がする。 まとめ ただの身の上話になってしまったが、臨床アカデミアの土俵の上では論文が通貨であり正義のような気がするので、論文を書くことで実現できることがまぁまぁあるのではないだろうか。 そしてマッチングの日に励ましていただいた先生方と5年越しに飲み会で論文についてお話しすることができたのは感慨深かった。

論文を通してコミュニティーを形成する

このご時世でそうないと思っていたのだが、ソロオーサー原著論文が最近JAMA Internal Medicine に掲載された。 凄いと思うのだが、一人で原著論文を書くことほど寂しいことってそうないのではないかと思ってしまう。 自分一人でアクセプトまでの全方面をカバーするのはキツいだろうし、何より共著者と様々な視点からの意見を交わしながら論文を磨き上げていく楽しみに欠ける。 ソロ論文はもの凄い功績だと思うし外野が云々言うことでは無いのだが「論文を通してコミュニティーを作る」ということを再考する機会となったので書こうと思う。 共著者を巻き込む ボスの受け売りが多い気がするが、 今のチーム2のボスと働く様になってから割とすぐ言われたことは 「論文は自分のコミュニティーを広げるための道具でもある」 ということで、意図が汲み切れていないかも知れないが、 共著者として仲良くなりたい人を巻き込むことでネットワークを形成する切り口にする という様なもの。 僕が言うとあざとい感じだが、 基盤となっているのはその人たちのインプットをもらって論文を良いものにするという意図で、 その副産物としてコラボを通してその後の研究につながる人間関係ができるなり、就職口であったり、メンターの様な相談役になってもらったりと言う様々な機会になりうるという様な考えだと思う。 遠くの他施設の全く接点のない人でも、何か一緒に仕事をする口実ができれば自然とコミュニケーションが増えて実際に会うことはなくとも名前は認識される様になるし、連絡を通して関係が出来上がったりする。 今くる査読依頼やタスクフォースへの招待の様なものの多くは共著した方々を介していると思う。 また「あのペーパー手伝ってもらった者です」等と言って学会などアポが取りやすいところで会って貰えたりもするのは素敵。 昨年のある学会ではISCHEMIAというスタディーをプレナリーで発表をした循環器の先生と、論文執筆以外では全く面識が無かったのだが、ISCHEMIA発表直前に15分程時間を作ってもらえた。 そして上手く論文が通った場合はその達成感をシェアできるわけで、これはより多くの共著者と「一緒に頑張った」みたいな意識があるものの方が感慨深くて楽しい気がする。 ただ最初のコラボの依頼のためのコンタクトはボスのネットワークを介しているのでそれ頼みなところもあるが、専門分野の世界は結構狭いと思うので何人か知り合いを介せばほとんどの人間にたどり着くことが可能なのではないだろうか。 僕は口数が少くテンション低めでアメリカで人と仲良くなる入り口を見つけるのには苦労するので、論文は自施設内でも関係を作るための切り口になる最強のツールだと思っている。 あまり臨床では絡まないアテンディングとも一緒に書いた論文がアイスブレーカーの様な役割を果たし、いつの間にか仲良くなっていたりする。 そして原点に帰って1番の利点は、自分の持っていない技術や知識をその道の専門家と共著することで補えることで、 案外、本当にそのテクニックを欲していて自分でもかなり頑張ったけど原著で自分で責任が持てるレベルの理解ではない、と言うことを伝えれたらチーム内で誰も面識のないエキスパートからでも結構Yesと言って貰えたりする。 まとめ 論文は最強のアイスブレーカーで、共著者を巻き込んで楽しく書くのは一つの醍醐味だと思う。

希少種・出木杉くんPIのハートをガッチリ掴んで離さないコミュニケーション術

今回はいまいち生態が知られていない希少種PIとの働き方のようなお話。 Twitterで頂いたご連絡からアイデアを得ました。 僕の場合はこうしています、という程度のもの。 ジャイアンPIをしばらく凌ぐとたまに出会える可能性のある出木杉くんPI。周りの学生やレジデントから人気で一緒に働きたいけど中々入り口が見つからない、というような人の設定。 なので千載一遇のチャンスを活かして仕事出来ますアピールでハートをガッチリ掴みたい。 だが研究に関するコミュニケーション作法のようなものって意外とブラックボックスで、何が一般的でどのようなアプローチで仕事を進めてどの段階でプレゼンをすればいいかが分からずに心配になることってないだろうか。 これは偏見かも知れないが、臨床に引っ張られてコミュニケーション不足気味の臨床医PIと働く時に多いシチュエーションのような気がする。 多分一般論として言えることは、PIの好みやスタイルは千差万別なのでそれを出来るだけ早く読み取って順応することがキーではないだろうか。 なのでPIの好みのようなものをあらかじめ本人や周りの人に聞いておくのは悪くないと思う。自分に合わせようとしてくれている、という意図が伝わるだけで好印象だと思うし、逆に遅い段階だと聞くに聞けない雰囲気になってしまうかも知れない。 ミーティングはどのくらいの頻度が良いか(週1、結果が上がり次第、etc) 未完成のものを方向性の確認のためにシェアしても良いか 解析のディテールはどの辺まで知りたいか など。まぁザックリでも感じがつかめればプラスだと思う。 そしてハイパーなグループになると新メンバーのオリエンやその読み合いのステップを省略するためのルールブックのようなマニュアルが存在する。 これは効率的で素晴らしいと思うし、外部から見てそのグループに合うかどうかの初期評価をするのにも有用な気がする。 うちの学生やレジデントが参加しているグループ1でも取り入れたいと思っているのだがいまだに流動的なところが多いのでマニュアル化できるのはまだまだ先の話。 2割の時間で8割の結果をまず報告 これは20:80 ルール的な考えで、おそらく8割の仕事をするのにかかる時間は全体の2割程度で、残りの2割を詰めるのに8割の時間がかかる、というようなもの。 ターンオーバーの速度を上げる目的で8割に到達した時点で一度PIに投げてみる、という方法を僕はよくとる。 そこで方向が全く違っていた場合はロスが少ないし、その結果を送る時点で、完成からは程遠いレベルだが方向性だけチェックしてほしい、というようなことを明記していれば嫌な顔をされることはないのではないかと思う。 簡単な例では図の配色やフォーマットを整えるのには時間を費やさずにとりあえずザックリのイメージが伝わる物を手早く見せて内容に関する意見をもらう、というようなもの。 ここで自分の認識でも未完成品、ということをハッキリさせておくのは重要で、これが抜けていると「こんなテキトーな物を送ってきよって」というお叱りを受けかねない。 今は二人のPIとこのやり方で一旦早いうちにチェックインして少し軌道修正が入ったものを時間をかけて自分が思う10割の仕上がりのものを再提出、というような感じにしている。 利点は、早い段階で進捗具合を報告できる機会ができることで、特にそのPIと書く最初の論文ではあった方が良い気がする。 恐らく最初のプロジェクトはお互いの感じを手探りで掴もうとしているのでここで歩調を合わせるのは重要ではないかと思う。 逆にマズいのは120%の質に仕上げようとして最初のチェックインまでに数ヶ月とかかかってしまう場合ではないだろうか。その間にプロジェクトが他のメンバーに回っている可能性も充分あると思う。 また、「なんか仕事早いヤツ」ポジションをゲットすると他のプロジェクトも振ってもらいやすい気がする。 メールやSlackでの反応を早く PIとする一番初めの仕事ではとにかく返信を早くしている。他の仕事を一旦止めて少し無理してでも最速で返すようにしていて、意図としては、向こうが「あ、なんか直ぐに必要になった場合こいつならすぐ反応あるな」という認識を作り出せれば色んないいことがある気がする。 うちのボスはミーティングのスケジュールが数時間前に決まったりするので、そのスロットに入り込むにはこの設定が必要かと思う。 またある程度の連絡のテンポが維持できればそこで軽いアイデアのキャッチボールのようなこともできるので、この認識は作れるなら作っておいて損はないと思う。 現にこのやり取りでアイデアが結構生まれた。 もちろん寝かせて考えなければいけないような事項は比較的ゆっくり返信。 エチケットとして’Thank you’だけの内容のメールは相手の時間が無駄になるので送らない、ということが言われるが、これに関する好みも個人差がある印象なのであまり作法本に書かれているようなものを鵜呑みにして本人に確認なしでその前提で臨むのは危険かも知れない。 とにかく先読み 忙しいPIほど自分で数ステップ先まで読んで解析やらプレゼンを準備して行った方が話がスムーズに進むし評価されているような気がする。 というのも、PIはPI でもdecision fatigueというか、ただ単にコンテキストなしの結果だけを延々とプレゼンされてもそれを読み込んでいい角度に落とし込むのはおそらくエネルギーを使うわけで、 データをプレゼンしてその上で自分の解釈と論文の方向性の提示、プラス代替案まで持っていければそれに基本Yes/Noで答えれば良くて、もう一段上に昇華させるためのアイデアにPIの時間とエネルギーを使えるようになる印象。 なのでやはり強力なペーパーの裏にいるのは強いPIだけではなくてファーストの人間のレベルとの掛け合わせなのかなと最近考える。 逆に、「PIが出し得るペーパーのレベル」が安定している場合、そのレベルの成果が引き出せないのはファーストである自分に至らないところがあるのだろうかということを考えないでもない。 まとめ PIのスタイルは千差万別で、一般化できる慣習のようなものは少ない気がする。 基本はボスの好みやスタイルを早くから学ぼうとする姿勢があり、それをうまく伝えれれば良いのかなと思う。 そしてその中でもターンオーバーをリーズナブルな範囲で最速化し、コミュニケーションをオープンにして次の数ステップを先読みできると盛り上がるのではないだろうか。

臨床医が臨床研究論文を書かなければいけないことの異常さ

今回はジャイアンPI出生の秘密に迫りたいと思う。 前からモヤモヤしていたトピックだが最近Twitterでご連絡を頂いた先生とのやりとりで考えが固まり、許可を頂いたので記事にしようと踏み切った次第。 僕の中のジャイアンPIは 臨床医で臨床経験豊富 臨床研究をやりたいがあまり時間を割けない 臨床的に重要なクエスチョンをデザインや統計的なリミットを考慮せずに追求する 学生やレジデントと研究したい まぁ実在するかと言えばするかもしれないし、しないかと言えばしないかもしれない。映画版テレビ版含め、程度の違うそれぞれのジャイアンが思い浮かぶ方もいるのではと想像する。 そして自分主体の研究で共同研究者や学生を巻き込む場合、一歩踏み外せば自分がジャイアンになってしまう危険は常に潜在しているのではないだろうかとも思う。 なぜジャイアンは生まれるのか まず「従来」のアカデミアにいる研究一筋の研究者と臨床医にとっての研究論文の重みの違いから考えたい。 臨床医が臨床の片手間でやっている研究と研究メインのファカルティーがやっている研究では論文のライフライン的な重みがかなり違うと思う。「死活問題では無いが臨床論文が書きたい場合」でも少し触れた。 米国の話だがいわゆる生物医療系(?)の研究者は大学からファカルティーとして雇われる場合は自身で獲得してきたグラントで賄うソフトマネーが給料の何割、という契約になるケースが多いと思う。 大学から年給の100%が保証されている研究職のファカルティーポジションはごく稀だと聞く。 対して臨床医のほとんどが給料は臨床を通しての売り上げやベース保証いくら、という形で、グラントや研究での成果を上げないと何割の給料が出ない、というような雇用契約の臨床医はほとんといないのではないかと想像する。 なので研究が上手くいかなかった場合のリスクが段違いだし、結果そこにコミットするまでの試行錯誤やフィルターになるプロセスが臨床医には比較的少ない気がする。 これが臨床医からジャイアンが生まれてくる理由の一つだと思う。 アカデミックな機関に臨床医として雇われる場合、臨床ができるのは前提だが、研究成果や研究に関する経歴ってプラスになるものはあれど、 それが欠けているから働き口がない、というケースは一部施設を除けばあまりない気がする。 なので3次医療的な環境で臨床がしたいしアカデミックな面に興味があるから大学病院に就職しよう、となった所に「昇進するために論文が必要」というプレッシャーが加わり、研究に関する知識や技術が満足いかない状態でも臨床研究を行わなければいけなくなってしまう。 そうして生み出されたジャイアンと(無数のレジデントの屍を乗り越えて)論文を書いたレジデントも一応研究成果がでてなんとなく研究ができる・続ければいけない雰囲気に取り込まれ、やがてアテンディングになると自分がジャイアンとして転生しこのサイクルが連鎖するのではと考える。 医者は臨床研究論文を書いた方が良い、という前提 臨床医が何かしらの研究論文を書いた方が良い、という前提がおかしいのではと考える。 臨床知識があって論文を書いたことがあるから、研究の専門的トレーニングや実績が無くても下の人を巻き込んで臨床研究をして論文が書ける・書かなければいけない、という流れには違和感を覚える。 もちろん、これと言ったバックグラウンド無しで上手くいっているケースは本当に素晴らしいと思うし、超絶なノウハウが蓄積されているのだと想像する。 ただ僕自身も今の施設で巻き込まれて苦い思いをした経験が多数あるし、上手くいっていないケースは多い印象。 これはそのような環境でリサーチせざるを得ない場合がどうというのではなく、それを助長するシステムがおかしいのでは、という議論。 むしろ「ほとんどみんな論文書く」をデフォルト設定にしたいなら、臨床研究を行いやすいように医学部教育の時点でスタディーの組み方、基本的なメソッドや統計手法のカリキュラムが一般化されるべきでは、というのは理想論だろうか。 この「何だか論文を書かなければいけない」雰囲気によって、あまり熱のこもっていない論文が書かれ(僕の過去のものも含めて)、クオリティーチェック無しにひたすら論文をアクセプトして出版費で収益を得るインパクトファクター0.0のハゲタカジャーナルがビジネスとして成り立つことにも多少なり貢献していると思う。 この現状を受け、低クオリティーの論文を抑制する意図で、「研究者生涯で論文として出版できるトータル文字数に制限を設ける」もしくは「掲載できる生涯論文数に上限を設定する」と言ったアイデアも結構真剣に議論されている。 Nature のコラムにもなった議論。 ただ、これに対して僕のボスが言っていたのは、「私の書いた論文トップ数本はそこに至るまでの無数の小さな論文から学んだことによって支えられているものだからこの議論はナンセンス」ということで、ごもっともすぎて衝撃が走った。 また、今やっている詰め度の研究を初めから要求されていたら絶対挫折していたし研究なんてつまんねって思っていた可能性が大きいので小さいトピックで割と敷居が低く書ける環境は大事。 まとめ かなり紆余曲折あったが何が言いたかったかというと、 臨床医が「書かなければいけないから」となって受け身で書く論文は色々辛いと思うしシステムとしてそれなりの弊害があると思う。 ただ、その重要な副産物として、臨床研究に目覚めて継続している人たちがいるのは確かなので手軽に経験できる環境は大事だと思う。 臨床医に臨床研究を求めるなら必須レベルのカリキュラムに力を入れるべき、というのは正論だと思うのだがそれも色々難しそうな話なので、この様な媒体で偏った情報ながらこんな感じのことを発信していけばどこかで何か良いことがあるのではと思っている。

ディズニー映画RCTから考えるリスクヘッジ

リスクヘッジの論文トピック選び Part3 です (Part 1, Part 2)。 2020年5月11日に JAMA Network Open からザワザワした論文が出たが、そのタイトルなんと Effect of Viewing Disney Movies During Chemotherapy on Self-Reported Quality of Life Among Patients With Gynecologic Cancer – A Randomized Clinical Trial つまり抗がん剤治療中にディズニー映画を観ることがQoLに影響を及ぼすかというRCT。 かなりリッチな雰囲気がこの時点で充満しているのだが まず解釈のためのポイントを押さえておくと 著者はディズニーの回し者では無い(Disney とのaffiliation やfundingは無い) フルの原著論文 BMJ Christmas Issue のようなネタ特集では無い なかなかツッコミどころがあると思うので、僕が考えるハイリスクなプロジェクトの実践編としてレビューしてみる。 ——————————- もし僕が腫瘍内科医でRCTの経験が豊富で研究費が5億円あってウォルト・ディズニーを崇拝していたとしても このプロジェクトはリスクが高すぎるので手を出さないと思う。 リスクが高いと思う理由は無数にあるのだが、 1. 介入選択の動機が弱い。 まず真っ先に気になったのが、なぜこのヘンテコな介入に行き着いたのか? ということで、理由が書かれているはずのBackgroundを読んだのだがディズニー映画を選んだことに関しては、 ウォルトディズニーの思想が素晴らしかったからContinue reading “ディズニー映画RCTから考えるリスクヘッジ”

レビュー論文の査読が30分で終わってしまった理由

レビュー論文の査読は原著論文と違ってメソッドや結果で評価できないので、切り口のオリジナリティーや構成、書かれている情報の正確さや引用文献の解釈のクオリティーなどが評価対象になって本来なら時間がかかるものが多い(?)印象を個人的に持っていたのだが、 今日のレビュー論文の査読依頼は30分で終わってしまった。 最初は記事にする内容ではないと思ったのだが考えるほどに不思議な査読だった気がして、僕自身発見があったので書いてみることにした。 これはただの偏見だろ、というご指摘があるかもしれないが僕自身、他の査読者は普通のコメントをつけているのに、結構なこだわりポイントで一人のレビュアーを激昂させてきついコメントがついたことは何度かあるので、 賛同いただけるかどうかは別として実際のレビューで起こり得ることかもれしれない、というスタンスで読んでいただければと思う。 また、査読論文をネタに使わせていただくのは、詳細はもちろん伏せた上での査読の対価、ということで通したいと思う。 さて本題。 レビュー論文の執筆は、エディターからその分野のエキスパートだと認知された上で依頼がくる場合は高確率で掲載されるのでいいが、 自発的に書いたものをジャーナルに売り込む場合って結構なリスクがあると思う。 レビュー論文は原著論文と違って自分で新しい知識を生成するわけではないので、ジャーナル側からの需要(依頼)がない場合はコンセプトの組み立て方や議論の切り口が斬新なものでない限り買い手を見つけるのは割と難しい気がする。 今回査読した論文は著者側が売り込んできたタイプのもの。 結構な問題点があったので数点あげていく。 一つ目はかなり特異なケースだと思うが… 図が違法 僕は最初に論文の流れを大雑把に掴んだ上で2回目のレビューで詳細を詰めることが多いのだが、まずその一度目のスキャンの時点で気づいたのが 論文中の複数の図が、業者のパンフレットの写真の脚注を落としただけのコピペ。転載許可に関する記述も無い。 このレベルのものはそう無いと思うのだが、かなりのスピードで著者に対するリスペクトを失ってしまった。 内容も際立った印象はなかったのでこの時点でエディターに対するdecision のrecommendationは大方終了した。 ある程度のスペルミスやフォーマットのエラーは誰にでもあるし全然許容範囲だと思うのだが、よく図の違法転載の様なあからさまなものを送ろうと思ったなと。 もし著者がメソッドを組み立てて解析を行なって新しい知識を生成しようと努力した原著論文でこれが行われていたら、もちろん違法なのは変わりないし指摘はするのだが心証は少し違ったのではとも考えた。 まずその様な図を載せる必要って原著論文ではあまり無いはず。そしてそこがこのレビュー査読の問題の本質の様な気もする。 他人が生み出した原著論文の上に成り立つレビュー論文なので、僕が思う「レビュー論文の1番肝心な部分」が疎かにされていたのが気になったのだと思う。 査読的なポイントとしては、この発見後の査読はひたすら酷評モードになってしまったということ。評価はフェアにやろうと努めたのだが普通なら見過ごしている様な穴にも結構コメントをつけてしまったと思う。 これは上の人から聞く話によると割と普通(?)のことらしく、どこかでキレてしまうとその後のコメントが厳しくなりがちだとか。 この査読が手短に終わったのは評価の方向がかなり早い段階で決まってしまったところが大きかったと思う。 切り口がゆるゆる 内容に関しては、論文の切り口が不明瞭だったのがネックだったと思う。 ロボット手術に関するものだったのだが、カバーしているトピックが広すぎてかなりフワッとした毒にも薬にもならないようなレビュー論文になってしまった印象。 ちょっと検索をかけただけで10本以上は似た様なものが見つかった。 これがレビュー論文の執筆が難しいと思う理由の一つだと思う。ただ単に調べれば出てくる知識をまとめて総論を書くのは恐らく割と簡単で、何か差異化できる特徴が必要だったと思うのだがそれがなかった。 引用が弱い ロボット領域って質の高いエビデンスを生成するのが難しく、そのせいで細かいアプローチの違いに関してはエキスパートの意見によるところが臨床場面では多いと思うのだが、 「X大学のY先生はこう言っていました」というのは確かに学会などでよく聞く情報ではあったのだが、レビュー論文に引用文献無しで書いていたのは事実確認のしようが無いので引っかかった。 また、外科系論文でよく使われる ’Our approach has been…’ の様な、我々はこうしています、という情報の記載なのだが ハイボリュームで手術成績も論文になっていて権威として認識されているチームからの自分たちのテクニックに関する発信はとても有用だと思うのだが、キツい言い方になってしまうが、手術成績もわからない素性の知れていないグループからデータの提示もなしにこの様なことを書かれても評価のしようがなかったのでそこも引っかかった。 まとめ この査読が手短に終わってしまったのは、あまり深い内容に突っ込まずとも評価できる表面的な最低ラインを越えていなかったことが大きかったと思う。 そして著者側から売り込むレビュー論文にはそこそこのリスクがあると思う。 データ採取や解析などのステップを踏まなくて良い分簡単に書けてしまいそうな印象があるかも知れないが、他の面でその論文の価値を補わなければいけないので、掲載への難易度に関してはそれ相応の対価があると思う。

論文リジェクトを減らすには

論文を書き続ける限り避けて通れないのがリジェクション。 不思議なもので、リジェクションの方がアクセプトより尾を引く感じがする。 その論文への入れ込み具合もあるのだが、僕の場合アクセプトが+100くらいで嬉しいのに対してリジェクションだと-150くらいのダメージがある。 ただ、誰もが通る道だし、人の論文を斬りまくっているエディターの書いた論文がリジェクトくらうことだってザラにあるわけなので、こればっかりはある程度落ち込んだ後は気を取り直して次にいくしかない。 釣りっぽいタイトルになってしまったが、リジェクションを減らすのに大したトリックは恐らく無く、単純にその論文の価値を見極めて相応のジャーナルに送ればいいだけではないかと思う。ただこの見極めが多分めちゃくちゃ難しい。 ほとんどのリジェクションは著者の論文に対する評価とジャーナル側の評価が食い違うから起こるわけで、このギャップが狭まればリジェクションは減るはず。 リジェクションが少ないPIは質の高い論文を書いているケースが多いと思うのだが、それに加えて論文の質とインパクトを評価することに長けているのだと思う。そして、このジャーナルならこんな感じのトピックというジャーナル側の趣向が分かっていることも重要だと思う。 ただ、Natureに掲載されるにはNatureにサブミットしなければ可能性はゼロなのでリジェクションが多いことが一概に悪いわけではないと思うのだが、明らかなミスジャッジが続くと時間がもったいないし実際にサブミットに手間をかける下の人(僕)が謀反を起こす等の問題がある。 要は論文を過大評価するか過小評価するかだけなのであまり掘り下げる話ではないかも知れないが、今まで論文を一緒に書いた10人強のPIの間でこの振れ幅がかなりデカかったので一応書こうと思った。 自分の論文を客観的に評価してどのジャーナルに送るかを決めるのは実際かなり難しいと思うので、一生懸命考えているPIを責めることはできないだろう。 それを踏まえてざっとグループ分けすると: ほとんどNEJMスタート リーチからはじめて2〜4回リジェクト 直球ど真ん中 ほとんどNEJMスタート これはグループというか個人なのだが…まぁこんなやり方もあるんだな〜程度の話。 NEJMスタートはジャイアンのポリシーらしいのだが、昔ジャイアンと書いた論文はトップジャーナルに通りそうな要素がかけらもなく、メソッドに結構な大穴が開いていたし、実名でサブミットするのを躊躇うくらいその他諸々の問題があった。 速攻でNEJMにデスクリジェクトされた次はLancet に送ると言うので、 いやー、ヨーロッパ系は難しくないですか? 等と意味のわからないことを言ってなんとか米国ジャーナルだけに絞る様に説得したのだが半年程ひたすらサブミットし続けてようやく某底辺ジャーナルに落ち着いた。 *この話は実在の人物や団体などとは関係ありません。 リーチのジャーナルから2〜4回のリジェクトで落ち着く これが僕の経験上では大半のPIではないか思う。 数段上のリーチのジャーナルからはじめて徐々に落として2〜4回以内に決める印象。 ただデスクリジェクトのシステムがない場合(IF~7以下のジャーナルにはほとんどない?)はどれだけリジェクトの可能性が高くても一回の査読に1〜1ヶ月半ほどかかるので2回くらいがモチベーション的な観点からの許容範囲な気がする。 なのでかなり大雑把な話だが、よほどの自信がない限りは、例えばIF 10のジャーナルにデスクリジェクトされたら4-6くらいまで一気に落とすとその下が限られるので収束が早まる感じがする。 余談だが、リジェクトされた後にその格上ジャーナルへのアクセプトはあり得るのか気になったので一度試してみたことがあった。 自信のあった論文だったということもあったのだが6つのジャーナルからリジェクトされ、IF1あるかないかのジャーナルからリジェクトが続いた後に手直し無しでIF5+のジャーナルに送ったものが通ったという経験がある。 もちろんIFは大雑把な指標でしかないしジャーナルの特色に左右されるところもかなりあると思うのだが、この振れ幅には驚いた。 ただ、執筆終了からアクセプトまで2年くらいかかったのでもう試そうとは思わない。 直球ど真ん中 1〜2回のサブミットでほとんど決めてしまうイケイケなPIもいると思う。 ただし、割とコンサバティブなアプローチをとっている(と思う)のでど真ん中というよりは論文を過小評価しがちな気がする。 そしてリジェクトで姉妹誌に移すサジェスチョンが来た場合はかなり格下でもほとんど受けている印象。 なので論文が掲載に向かって動くのは確かに早いが、結構チャンスのあったであろうもう少し良いジャーナルをトライできないのはちょっと残念かもしれない。 多分その辺の小さな違いには時間をかけずに、ある程度のペースで論文を出し続けるのも大事な要素として考慮しているのではないかと最近考える。 まとめ ジャーナル選びにもいろいろなスタイルがあるなという話。 自分の論文を客観的に評価できる様になると相応のジャーナルに送りやすくなるのかもしれないが、査読自体がそこまでscientificなプロセスではないので元気のあるうちはリジェクト覚悟で結構リーチのジャーナルからはじめてもてもいいのではないかと思う。 上を試さないでアクセプトになると、もしあのジャーナルに送っていたらどうなっていただろう、と夜な夜な考えてしまう様なことは…ないだろうか。    

論文1本の金銭的価値は?

論文の金銭的価値って気にならないだろうか。 結構な研究費が費やされているのに出来上がる臨床論文にあまり医療的・科学的価値がないケースを(自分の論文含めて)見続けてきたので、僕はすごく気になる。 また、臨床に同じ時間を費やせばかなりの収益を上げられるはずの医者が数十から百時間かけて書く論文には相当な価値があるはずなのだが… 下記に詳細を書くが、大雑把な結論から言うと: 最低ラインが1本10~30万円 インパクトファクター1点につき20万円くらい ではないかと。 シビアに金銭的価値を詰めるのは難しい、というか昇進による昇給や論文による施設の宣伝効果などの下流にある付加価値のようなものを考慮するのは不可能なので間接的に推定したもの。 ネタ程度で読み捨てていただければと思う。 1USドル=100円で計算する。 ケース1:オープンアクセスの出版費用から推定 「著者が出版費用を負担する」というオープンアクセスジャーナルの出版モデルをご存知だろうか。 出版費で稼ぐためにゴミ論文を採択しまくるハゲタカジャーナルが悪名高いが、 JAMA Network Open, Nature Communications, PLOS Medicine 等しっかりした査読プロセスがあり科学的に価値のあるものだと判断された論文を出版するプラットフォームも多数存在する。 JAMA Network Open にはまだインパクトファクターが付いていないがNature Comm とPLOS Med はいずれも10点超え。 著者への負担はジャーナルによって振れ幅があるのだが 2020年4月現在で高いものだとNature Communications の$5380 (54万円)。JAMA Network Open とPLOS Medicineが両方$3000(30万円) だがほとんどは10-30万円の価格帯に収まっている様。 注目したいのは、「誰か」が出版費用以上の価値がその論文にあると思うからオープンアクセスのビジネスが存在する、というところ。 つまりNature Communications に載っている論文は「誰か」が1本54万円以上の価値があると思ったからお金を払って出版した事になるのではないだろうか。 この「誰か」は、研究費の出どころである施設だったり大学だったりするのだろうが自腹を切って払ったという猛者も僕の周りにはいる。 そして出版費用はジャーナルのインパクトと相関する。 下がオープンアクセスジャーナルのインパクトと出版費用をプロットしたもので、右肩上がりなのがわかると思う。 同じPLOSファミリーでも、PLOS Medicine が30万円なのに対して、インパクトが落ちるPLOS One が13万円ちょっとなのもそういったところだろう。 ただ、出版費用から推測できるのは最低ラインであって、100万円で買ったデータを統計屋に30万円で解析してもらったものを論文にして30万円の出版費用を払ってオープンアクセスジャーナルに載せる、という様なケースはこの方法ではかなり過小評価されてしまう。 だが最低ラインとしての目安にはなるのではないだろうか。 仮に、「ジャーナルに掲載された論文のオーサーシップを丸々買い取れる」というサービスがあったとすればその買値がその論文の金銭的価値、ということになるかと思う。 推定1:論文のインパクトによるが、大体1本10万〜30万円以上の価値があるContinue reading “論文1本の金銭的価値は?”

論文本数は無意味? 

ほとんどの臨床論文は無意味? 少し前にツイッターで炎上した某先生の 論文100本はないとその分野の権威とは言えない という趣旨の発言。 ただの煽りだったのかもしれないが もちろん論文を量産しやすい分野としにくい分野があり、基礎研究者と臨床研究者の本数を比べるのはアンフェアだし、 あまり意味の無い論文を100本書くよりは高インパクトの論文が1本あった方が研究者としての実績は上ではないだろうか。 論文何本、みたいなのは字面にしやすい(僕もこのサイトに本数を書いている)が本数自体に価値はないはず。 でも、医者の世界では特に論文の本数が重視されている気がする。炎上ツイートの某先生も医者。 僕も実際気にしていた。本数が上がるにつれて査読依頼も増えたし、分野での認知度が上がった気はした。 本数稼いでCVを水増しすることが実際に優遇されてしまう。これはマズいシステムだと思うけど現実。 実際に研修医マッチングのランク会議でも、「この学生は論文○本あるから優秀」というような評価がされることもあるし、医学生も必「マッチングまでに何本は欲しいから」と言って本数が稼げるチームやテーマを選ぶ人を見かける。 なので、サイエンティフィックな価値はほとんどないとしても研究社会的に、特に医者の社会で上に行くには本数はある程度必要と思わざるを得ない。 なので僕は、手段ではあるが目的ではない、とある程度割り切っている。    ほとんどの論文は無意味か? スタンフォード大のJohn Ioannidis 教授がこういったメタなトピックの権威で、 Why Most Published Research Findings Are False. Plos Med. 2005 というのと Why Most Clinical Research Is Not Useful. Plos Med. 2016 というのを10年おきに執筆している。 結論から言うと教授の論文のタイトルにも書かれている通り、 ほとんどは無意味 なぜなら Most clinical research therefore fails to be useful not because ofContinue reading “論文本数は無意味? ”