今回はジャイアンPI出生の秘密に迫りたいと思う。
前からモヤモヤしていたトピックだが最近Twitterでご連絡を頂いた先生とのやりとりで考えが固まり、許可を頂いたので記事にしようと踏み切った次第。
僕の中のジャイアンPIは
- 臨床医で臨床経験豊富
- 臨床研究をやりたいがあまり時間を割けない
- 臨床的に重要なクエスチョンをデザインや統計的なリミットを考慮せずに追求する
- 学生やレジデントと研究したい
まぁ実在するかと言えばするかもしれないし、しないかと言えばしないかもしれない。映画版テレビ版含め、程度の違うそれぞれのジャイアンが思い浮かぶ方もいるのではと想像する。
そして自分主体の研究で共同研究者や学生を巻き込む場合、一歩踏み外せば自分がジャイアンになってしまう危険は常に潜在しているのではないだろうかとも思う。
なぜジャイアンは生まれるのか

まず「従来」のアカデミアにいる研究一筋の研究者と臨床医にとっての研究論文の重みの違いから考えたい。
臨床医が臨床の片手間でやっている研究と研究メインのファカルティーがやっている研究では論文のライフライン的な重みがかなり違うと思う。「死活問題では無いが臨床論文が書きたい場合」でも少し触れた。
米国の話だがいわゆる生物医療系(?)の研究者は大学からファカルティーとして雇われる場合は自身で獲得してきたグラントで賄うソフトマネーが給料の何割、という契約になるケースが多いと思う。
大学から年給の100%が保証されている研究職のファカルティーポジションはごく稀だと聞く。
対して臨床医のほとんどが給料は臨床を通しての売り上げやベース保証いくら、という形で、グラントや研究での成果を上げないと何割の給料が出ない、というような雇用契約の臨床医はほとんといないのではないかと想像する。
なので研究が上手くいかなかった場合のリスクが段違いだし、結果そこにコミットするまでの試行錯誤やフィルターになるプロセスが臨床医には比較的少ない気がする。
これが臨床医からジャイアンが生まれてくる理由の一つだと思う。
アカデミックな機関に臨床医として雇われる場合、臨床ができるのは前提だが、研究成果や研究に関する経歴ってプラスになるものはあれど、
それが欠けているから働き口がない、というケースは一部施設を除けばあまりない気がする。
なので3次医療的な環境で臨床がしたいしアカデミックな面に興味があるから大学病院に就職しよう、となった所に「昇進するために論文が必要」というプレッシャーが加わり、研究に関する知識や技術が満足いかない状態でも臨床研究を行わなければいけなくなってしまう。
そうして生み出されたジャイアンと(無数のレジデントの屍を乗り越えて)論文を書いたレジデントも一応研究成果がでてなんとなく研究ができる・続ければいけない雰囲気に取り込まれ、やがてアテンディングになると自分がジャイアンとして転生しこのサイクルが連鎖するのではと考える。
医者は臨床研究論文を書いた方が良い、という前提

臨床医が何かしらの研究論文を書いた方が良い、という前提がおかしいのではと考える。
臨床知識があって論文を書いたことがあるから、研究の専門的トレーニングや実績が無くても下の人を巻き込んで臨床研究をして論文が書ける・書かなければいけない、という流れには違和感を覚える。
もちろん、これと言ったバックグラウンド無しで上手くいっているケースは本当に素晴らしいと思うし、超絶なノウハウが蓄積されているのだと想像する。
ただ僕自身も今の施設で巻き込まれて苦い思いをした経験が多数あるし、上手くいっていないケースは多い印象。
これはそのような環境でリサーチせざるを得ない場合がどうというのではなく、それを助長するシステムがおかしいのでは、という議論。
むしろ「ほとんどみんな論文書く」をデフォルト設定にしたいなら、臨床研究を行いやすいように医学部教育の時点でスタディーの組み方、基本的なメソッドや統計手法のカリキュラムが一般化されるべきでは、というのは理想論だろうか。
この「何だか論文を書かなければいけない」雰囲気によって、あまり熱のこもっていない論文が書かれ(僕の過去のものも含めて)、クオリティーチェック無しにひたすら論文をアクセプトして出版費で収益を得るインパクトファクター0.0のハゲタカジャーナルがビジネスとして成り立つことにも多少なり貢献していると思う。
この現状を受け、低クオリティーの論文を抑制する意図で、「研究者生涯で論文として出版できるトータル文字数に制限を設ける」もしくは「掲載できる生涯論文数に上限を設定する」と言ったアイデアも結構真剣に議論されている。
Nature のコラムにもなった議論。
ただ、これに対して僕のボスが言っていたのは、「私の書いた論文トップ数本はそこに至るまでの無数の小さな論文から学んだことによって支えられているものだからこの議論はナンセンス」ということで、ごもっともすぎて衝撃が走った。
また、今やっている詰め度の研究を初めから要求されていたら絶対挫折していたし研究なんてつまんねって思っていた可能性が大きいので小さいトピックで割と敷居が低く書ける環境は大事。
まとめ
かなり紆余曲折あったが何が言いたかったかというと、
臨床医が「書かなければいけないから」となって受け身で書く論文は色々辛いと思うしシステムとしてそれなりの弊害があると思う。
ただ、その重要な副産物として、臨床研究に目覚めて継続している人たちがいるのは確かなので手軽に経験できる環境は大事だと思う。
臨床医に臨床研究を求めるなら必須レベルのカリキュラムに力を入れるべき、というのは正論だと思うのだがそれも色々難しそうな話なので、この様な媒体で偏った情報ながらこんな感じのことを発信していけばどこかで何か良いことがあるのではと思っている。